タイトル

●浦野 さとみ(うらの 智美)  ●年齢 36歳

●1980年 千葉県松戸市生まれ

●千葉県立国分高等学校卒 

●千葉医療福祉専門学校卒

●2003年  医療法人社団 健友会 中野共立病院 入職

●2008年 リハビリ室主任 作業療法士として8年間勤務(2011年3月まで)

●2011年4月 中野区議会議員選挙 初当選(1636票・38位)

●2015年4月 中野区議会議員選挙 2期目の当選(2987票・4位)

●モットー:自分でやると決めたことは最後までやる

●趣味:旅(沖縄県離島・竹富島)、ゆずのライブへ行くこと、ソフトボール、スポーツ観戦

 

0才から保育園通い

両親が働いていたので、0才~5歳まで6年間、生まれてからすぐに保育園に通うようになりました。

両親は、仕事の帰りも遅かった為、保育園に迎えに来るのは、近所の方で、その方の家でしばらく過ごし、夜の9時~10時頃に両親が迎えに来るという生活でした。ご近所の方には、本当にお世話になりました。

小さい頃から、顔はあまり変わっていません・・・。

 

小学校時代-弟の誕生

小学校に入ると放課後は学童保育に行き、学童が終わると、保育園時代と同様、ご近所の方の家でお世話になっていました。学童保育では、キャンプやドッジボールなど活発に遊んでいました。

小学校2年生の頃に弟が生まれました。それまで一人だったのでとても嬉しかったです。

弟も0歳から保育園に行き、私が小学校高学年になってからは、私が保育園に迎えに行き、親が帰ってくる夜の9時・10時まで二人で家で過ごすという日々でした。

 

中学校時代-ソフトボールとの出会い、大好きな祖父母

中学校に入学し、部活動紹介でソフトボール部がとても楽しそうだったのでソフトボール部に入部を決めました。体格がよいことを理由に(!?)、ポジションはキャッチャーに。

その年の松戸市内で行われた、1年生大会でなんと3位に入賞(!)。「自分達でも、がんばれば何とかできる」と、とても嬉しかったことを覚えています。2年生の時には松戸市で準優勝し、千葉県大会へもすすみました。

3年生が引退の時期を迎えた2年生の秋から主将になりました。練習も厳しい日々が続きましたが、、3年間、仲間とともに頑張ったことは、自分でも大きな自信となり、私の心を支える経験となっています。

夏休み・冬休みは両親の実家(大阪と鹿児島)で過ごしていました。とても、温かい祖父母で、大阪と鹿児島に行くことがとても楽しみでした。現在は他界していますが、祖父母との思い出は私の中ではとても大事なものとなっています。

高校時代-部活に明け暮れた日々

自宅から自転車で20分ぐらいの県立国分高校に入学。迷わずソフトボール部へ入部しました。

朝7時頃~朝練。授業が終わり日が暮れるまで練習。

イチローのファンだったのでイチローが道具を大切にするという事を知って、練習の後はグローブやスパイクなどを部室で磨きながら友達とおしゃべり、8時頃に帰宅という生活でした。

指導の先生をはじめ、先輩と同期、後輩に本当に恵まれ、とても楽しい3年間でした。苦楽をともにした先輩とは、今だに交流が続いています。

 

脱毛症-医療との出会い

中学3年生になって部活動も終わり、受験勉強中心に学校生活が変わったころ、脱毛症がはじまりました。

高校時代は、ずっと帽子をかぶって過ごしました。

最初はとてもショックでしたが、いま思えば、私の進路を決める上でもとても貴重な経験でした。

この経験が、医療関係に興味を持ち始めるきっかけとなり、当時、とても信頼をしていた高校の担任教師から、リハビリの仕事があるということを教えていただき、実際の医療現場を見学させていただいたり本を読んだりして、この道に進むことを決めました。

 

専門学校時代-バイト先での思い出

1999年4月、4年制のリハビリ専門学校、千葉医療福祉専門学校(千葉県君津市)に入学。

両親は「18歳になったら最低限の生活費をあたえて家を出す」という方針だったので、千葉県内の学校でしたが、一人暮らしが始まりました。

両親からの仕送りとバイトをしながら生活しました。いま、考えると両親には本当に感謝しております。また、この時のバイト先にも、大変お世話になりました。学校入学~国家試験の直前まで3年半、働かせていただきました。

私がバイトしていたのはラーメン屋でした。

店長は寿司屋の経験があり、息子さんがラーメンを始め、ラーメン&寿司というセットメニューが売りでした。一番安いラーメンと寿司のセットは680円(!)。昼間は寿司とラーメンを目当てにサラリーマンが押し寄せ、夜は、お酒を飲みながら、刺身→もやし炒め→ラーメン&寿司というゴールデンラインで大変繁盛しました。

ご家族で経営し、とても良くしていただき、バイト後にはまかないも出していただき、一人暮らしの私にはとても助かりました。バイトをやめて就職してからも半年に一回ほど通っていました。ところが突然の閉店。とても、残念でしたが、本当にお世話になり感謝しております。

中学・高校と6年間、ソフトボールに明け暮れましたが、リハビリの学校では野球サークルがあったため、男子に混ざって野球を楽しみました。高校時代に買ったグローブはいまも、しっかり使えます。

 

21才-共産党との出会い

両親が党員ということもあり、家には「しんぶん赤旗」がいつもありました。

それまでは空気のような存在というか、当たり前になっていたので、特別に意識することはありませんでした。

ちょうど私が、高校生の時(96年~98年)は、日本共産党は過去最高の躍進期を迎えたときであり、わからないながらも、選挙速報で共産党の議席が増えるたびに、喜んだことを覚えています。

リハビリの学生時代であった2000年に、千葉県内で行われた共産党の演説会に親と参加、その際に民青同盟(正しくは日本民主青年同盟)の方に声をかけられ、学校以外にも友達が増えるならと、加盟しました。

民青同盟というのは共産党とは別組織ですが、組織の目的としては、社会の次代の担い手として成長するために、広く一般的な教養と科学的社会主義、日本共産党綱領を学び、青年の要求の実現のために同世代の交流と連帯の輪を広げる組織です。ここで、色々と学習する中で、共産党に対する認識も深まっていきました。

何かの学習会の時に、科学的社会主義と日本共産党綱領を学ぶ中で「すごく大きなビジョンを持って何万人という人々が一緒に活動している事や、国民の中の多数者で選挙によって世の中を一歩一歩段階を経て変えていこうという道筋、そのために一人ひとりの意見を聞いて、それが最終的にそこへ結びついている事」に単純に『すごいなぁ』と深く感動し、周りの参加者が驚くほど涙を流したことを覚えています。

両親がなぜあんなに一生懸命がんばっているのかがわからなかったことや、私のそれまで生きてきた中で「仕方がない」とあきらめていた部分などが、クリアにできた瞬間だったと思います。今でもその感動は忘れてません。

しかし、決して共産党に入ろうとは思いませんでした。

日本共産党の事を学べば学ぶほど、戦前の活動の大変さや、とても責任の重い活動をしていることを実感してしまい『畏れ多くて、とても自分にはできない』と思っていたからです。

『自分にはできない』という気持ちが先立ち、なかなか決意できませんでしたが、「少しでも、私にできることがあるなら」と、2001年の夏に入党を決意しました。私の人生の中でも、大きな転機となり、今の自分を支える原点になっています。

 

就職-医療現場で感じた矛盾

2003年、国家試験に合格。作業療法士としてのようやく第1歩をふみだしました。

全日本民主医療機関連合会(民医連)に加盟する、東京都中野区にある中野共立病院に就職。先輩方をはじめ、同僚、後輩から多くのことを教えていただきました。そして、何より、人生の大先輩である患者様・利用者様から、本当に沢山のことを学ばせていただきました。

また、病院の現有地建て替え、新病院開設という大事業にも関わらせていただきました。

すべてがいまの私につながっています。

同時に、今の医療制度の矛盾、患者負担が増えお金がなければ医療が受けられない方が増えていること、また、差額ベッド代をとらない民医連の病院や中小規模病院の経営が成り立たない診療報酬制度、もっと医療を充実させたい、安心して当たりまえに誰もが医療を受けられることができるようにはならないのか・・・。

医療、子育て、仕事、生活、介護、一人ひとりの方にとって、どの問題も身近なことです。もちろん、自分たちの努力で解決できることもありますが、おおもとの制度・政治を少しでもよくしていくことで、本当の意味で一人ひとりが大切にされ、その方らしく生きられる世の中になるのではないかという思いが強くなっていきました。

 

パワーチャージ-大好きな竹富島

はじめて竹富島へ行ったのは2003年9月の一人旅にて。

西表島や小浜島、竹富島など1日で色々まわろうとしていた欲張りな私に、「いくつも行くより、1日ゆっくり竹富へ行ってきた方がいいよ」と石垣島のおじぃに言われて行ったのが最初です。

今でも、このおじぃには本当に感謝、感謝です。

それ以降、竹富島の魅力にはまり、さらに良さを知ったのは日帰りではなく宿泊をした時でした。

なんとも言えない静けさ、西桟橋から見える西表島に落ちていく夕日、夕日の光が海辺の全体に広がり、日が沈んだかと思えば、綺麗な月が町全体を照らし、いくつもの星(天の川も)が光る幻想的な風景に、ただ、ただ感動でした。

景色はもちろん、町の人々、町並み、伝統行事などなど、とにかくすべてが大好きです。

何もしないで1日コンドイビーチにいるだけで、それはもう幸せ・・・。

何もしない贅沢を味わうため、毎年必ず訪れます。

私が多くの言葉で語るより、ぜひ、一度、行っていただき、感じていただくことをお勧め致します。

その時々で色々なことに気がつかせてくれ、色々な出会いがある。私は、竹富島が大好きです。

 

もうひとつのパワーチャージ-ゆず

ゆずは私が高校三年生の時にメジャーデビューしていますが、同級生からいい曲があるよと教えてもらい、当時、カセットにダビングしたものを貸してもらい、聴くようになりました。

初めて自分のお金でCDを買ったのは、『いろは』のバイト代で買った『ゆずえん』というアルバムでした。

このアルバムには、サヨナラバスやからっぽ、いつかなど、みなさんが一度は聞いたことがある!という曲も多く入っています。そのアルバムの中に、夏のライブツアーのお知らせが入っていて、申し込みをし、横浜スタジアムでのライブに参加することができました。

人生で初めて、アーティストのライブに参加、なんと前から4列目の席だったことにもビックリ!!そして、ライブの内容にも感動・感激したことを鮮明に覚えています。

その時のライブ中の曲で、自分の知らない曲が一曲だけあったことがなんだかとても悔しくて、ゆず魂に火がつきました。

それまで発売されていたCDやビデオ(当時はDVDはありませんでした・・・時代を感じます)などを全部購入し、ゆずづけな日々が始まりました。

それ以降、ライブツアーには必ず参加、参加公演は計100公演を超えました。

今でも、ほぼ毎日、ゆずの曲を聴いています。就職した病院の中で、ゆずサークルをつくり、みんなでライブツアーへ行ったりカラオケでゆずの曲だけで数時間過ごしたりといったこともしばしば。

嬉しい時、悲しい時、寂しい時、どんな時でも、ゆずの曲から沢山のエネルギーをいただいています。

自分の中での応援曲は沢山ありますが、大好きな曲BEST3は、『アゲイン2』・『飛べない鳥』・『青』です。

 

議員として-日々、地域をまわりながら

 2011年4月の中野区議会議員選挙へ立候補。1636人の方が投票をして下さり初当選。

2015年4月の区議会議員選挙では、2987人の方が投票して下さり、2期目の議会へと送っていただきました。

日々、自転車で地域をまわりながら、切実な声やご要望を伺わせていただいております。

その声を、議会の中で質問として取り上げ、区民のための区政となるよう取り組んでいます。

また、これまでに寄せていただた相談は550件を超えました(2015年12月末現在)。

生活のこと、医療・介護に関すること、放射能対策について、税金や保険料、マンション建設に伴う問題、道路のデコボコや信号に関することなど、その内容は多岐にわたります。

問題解決のため、少しでもお役にたてた時ほど嬉しいことはありません。

弁護士や行政書士、医療・介護スタッフなどの専門家とも連携しながら、今後も、皆様のお役にたてるよう、そして、地域のために取り組みます。